鶴田元監督のご紹介

Homeでの試合では毎試合のようにネット裏で試合を観戦していてくれる元監督の鶴田悟さん(高3回)(79歳)が以前平成4年に、OB会報に寄稿された記事をご紹介致します。

<PRF>-鶴田悟/ツルタサトル-
愛称/ツルチャー、神ヶ谷のお寺の御曹司に生まれ浜松二中・浜松二高と学校名が変わる戦後まもなく入学し、直ぐに野球部に入部。捕手として活躍。現役時代は春選抜で韮山が全国制覇を成し遂げた昭和25年第32回大会1回戦対静岡商8-2浜松西★河合孝雄-鶴田のバッテリーhttp://www3.shizushin.com/anniversary/hamanishi/hamanisi26.html
この年は浜松商が初優勝した年でもある。その後青山学院に進み英語教員として野球部部長・監督として22年間母校で教鞭を執る。

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俺達の浜西野球シリーズ Vol.2       平成4年OB会報より

<監督時代を回想して>  
元監督 鶴田 悟 (高03回卒) 平成4年3月寄稿

 昭和31年、浜松西高に赴任し昭和53年の転出まで、22年間にわたり野球部顧問を務め、延べ12年間監督としてチームの指揮を執った。残り少ない教員生活を振り返る時、その大半を浜西野球部と共に歩み、毎年良き部員達に恵まれ、多くの楽しい思い出を持つことが出来たことを嬉しく思う。

 私が赴任した当時、豪放磊落、個性豊な寺田部長と野球一筋の熱血監督、大石博史(高02回)さんが野球部の指導に携わっていた。両人とも既に故人となられたが、特に大石監督は、高校の一年先輩であり、私が野球部に入部した時、野球について色々と指導してくれた。

監督をしておられた頃、試合前選手達を集めて、「無の境地で試合に臨め」「強敵たりとも恐れず、小敵たりとも侮るな」とよく叱咤激励をしていた姿が懐かしく思い出される。 

この立派な監督の後を引き継いで昭和33年、監督に就任した。私の野球経験は高校だけで、性格的にも監督の器ではなかったが若さと気力だけでぶつかった。

監督時代、色々な出来事があった。昭和42年夏合宿中の食中毒事件、奥山半僧坊での寒中合宿、大事な試合直前におこった選手の怪我等々思い出される。

又監督になりたての頃OB会のはからいで、コーチとして来校された小川正太郎(早大OB)、岡田源三郎(明大OB)諸氏から教えられた技術を取り入れ、練習に試合に生かした。こうしたものが私のベースになっているが、数多くの試合を経験することがなによりも勉強になった。

勝負の世界では勝てば官軍であり、試合では何が何でも勝たねばの意識が自ずと強くなり、大事な試合に負けた時には悔しさで夜も眠られぬ時もあった。

12年間の監督生活の中で、優勝の喜びを味わったのは、昭和43年、堀口(三ヶ日西部)-松浦(麁玉)のバッテリーで春季県大会の時一度だけである。

昭和42年夏、大橋(麁玉)-矢沢(浜松東部)で準決勝、昭和46年夏、白柳(浜松西部)・村松(麁玉)-鈴木雄三(竜洋)で決勝と何れも惜しいところで優勝を逃している。

毎年、数多くの優秀な選手を擁しながら十分な戦績を残す事が出来なかったのを申し訳なく思うが、勝敗は兎も角、各人が高校での3年間を通し培った体力、精神力をもって卒業後、社会で立派に活躍している姿を見る時、その気持ちも和らぐ。