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高65回 坂下 空さん
    丹波新聞記事より

アメリカの独立リーグ、オランダのプロ球団、日本の独立リーグで投手として活躍し、今秋、国内外のトライアウトを受ける野球浪人中の男性が半年間、兵庫県丹波市内で練習に励んだ。小・中・高校、大学で全国大会出場経験はなく、目立った成績も残していない非野球エリート。上向きになったのは25歳からという遅咲き、かつ異色の野球人。「世界一の投手になる」と夢を追う坂下空さん(28)=関西独立リーグ・兵庫ブレイバーズ練習生=に話を聞いた。

「平凡」から異色の球歴へ

大学卒業後の坂下空さんの球歴

180センチ、87キロ、右のオーバースロー。直球は最速149キロ。カットボール、カーブ、チェンジアップなどの変化球を操り、どの球種でも三振を取れるのが強み。


静岡県浜松市出身。小・中学校時代は軟式、進学校の県立浜松西高校時代は、高3の夏の県大会でベスト32。静岡大でも東海学生野球連盟の静岡県リーグ2位が最高成績。ノンプロに進みたかったが、チーム内でエースの座をつかむのすら覚束ない平凡な投手は誰の目にも留まらなかった。


強豪でもない同大野球部員の卒業後の進路は、就職や大学院進学で、野球を続ける者は、先輩、後輩に1人もいなかった。監督に相談し、卒業の年に新しくできた企業経営のクラブチーム「山岸ロジスターズ」(静岡県島田市)にトライアウトを経て入団。朝6時―午後3時までチーム母体の会社で働き、午後4時から3―5時間、その後さらに室内練習場で10―零時まで練習した。


新設チームに、甲子園で春夏連覇した大阪桐蔭のベンチ入りメンバー、甲子園ベスト8の天理、帝京、横浜など全国の強豪高校出身で、野球を続けたい選手が集まった。中にはNPB(日本プロ野球機構)の育成選手契約を蹴ってきた選手もいた。全体で30人程度、投手だけで12―13人いたときもあり、序列は中位から下位。同時期に在籍した則本佳樹投手(楽天則本昂大投手の弟)は、2年目に育成ドラフト2位で楽天に入団した。


3年間プレーしたが、「ここにいてもプロになれない。もっとプロに近づきたい」と退団。在籍時、ノンプロの強豪、JR東日本戦で登板。2回9失点と話にならなかった。「棒球の140キロでは打たれて当然だった」と振り返る。


その年、海外で野球をしたい人向けの「ワールドトライアウト」に参加したことで道が開けた。「対戦相手ら他球団に引き抜かれ、ステップアップする」ためのチーム「アジアンブリーズ」に加わり、西海岸のアリゾナに飛んだ。チームは、キャンプ中のマイナーリーグ韓国プロ野球球団の練習相手だった。


新型コロナの影響で滞在が2週間に短縮されたが、投手が十数人いる中で、2試合で先発を任され、「完璧ではないが良い投球ができ」(坂下さん)、米国独立リーグから声が掛かった。米国は独立リーグが多数あり、上位リーグの選手はどんどん3A、2Aなどに引き抜かれ、メジャー昇格のチャンスが生まれる。


独立リーグで「期待の若手」に

「世界一の投手」を目指す坂下空投手。住み込みで管理人を務めた改修中の古民家から9月7日付で転居し、夢の実現を目指す=兵庫県丹波市青垣町大名草で


2020年、事態は急転。新型コロナウイルスの影響で、内定していたアメリ独立リーグに、外国人選手は参加ができなくなった。「アジアンブリーズ」の球団オーナーが「1枠空きがある」と紹介してくれたオランダリーグ行きを即決。20年7月から10月初旬まで、同国トップリーグの「オーステルハウト・ツインズ」に所属。先発ローテーション入りし、3勝2敗の成績を残した。


給料は月6万円、ホストファミリー宅に住み込み。国土が狭く、どこに遠征するにも車で片道3時間で着き、試合終了後、帰宅した。


「オランダでどれだけ活躍しても、メジャーは見てくれない。やはりアメリカ」と、同年秋に退団し、帰国。21年に米国独立リーグに再挑戦するため一時期帰国中の21年4月にBCリーグ(日本の独立リーグ)「茨城アストロプラネッツ」(茨城県笠間市)に5月までの約束で入団。6月に米国独立リーグに再挑戦した。5日間のテストに合格すると同時にドラフトがあり、独立リーグの一つ、「エンパイアリーグ」の「ニューハンプシャーワイルド」に入団。日本人初の開幕投手を務めた。2カ月で50試合あり、9試合を投げ6勝3敗。勝ち星はリーグ2位、奪三振数は1位の好成績を収め、リーグ「期待の若手選手」7位に選ばれた。


寮は無料。体育館の半分くらいの広さの所に、40―50人が雑魚寝だった。日本人1人、韓国人が2人以外は、米国、中南米国籍。大部屋に壁はなく、チームから支給されたのは、ビーチベッドと枕1つのみ。私物を置く場所がなく、鍵がかかるスーツケースがロッカー代わり。時折、大量の食材が届き、おのおの自炊した。移動はチームメイトの車。「自分はそうではなかったが、下手は乗せてもらえなかった」。厳しい世界を目の当たりにした。


アメリカのマウンドは高い上に硬く、土が掘れず、踏み出した足の力が全身に伝わり、自己最速の149キロをマーク。日本にいた時より直球の球速が3キロ増した。


この年の活躍で、22年のシーズンは、より上位の独立リーグ「アトランティックリーグ」のチームに内定。就労ビザが必要になり、21年8月に帰国、一時帰国中の練習でけがをし、内定取り消し。1年の野球浪人生活を送ることになる。


縁あって丹波市にやって来た。当初はホテル住まい。同市青垣町大名草で開業準備が進む、古民家を使ったコミュニティスペースの住み込み管理人の仕事を見つけ、改修を手伝いながら、毎日1人で練習に励んだ。夕方に練習が終わると、同県豊岡市に移動しアルバイト。夜遅く青垣町に戻った。


11月に渡米し、3度目の米国独立リーグのトライアウトを受ける。NPBチームのスカウトに見てもらう話もついている。これから開幕する南半球リーグへの参戦も視野に入れている。


打者と向き合う実戦調整のために8月下旬、兵庫ブレイバーズ(同県三田市)に練習生で入団した。キャッチボール相手ができるのは、昨年12月のアメリカ以来だ。


「新しい感覚があり、年齢を重ねても良くなっていて、右肩上がり。実力が下がればやめる」ときっぱり。「世界一の投手」は、小学生の時に掲げた夢。「親から、自分で決めたことはやり遂げろと言われ育った。それが野球に向くとは親も思っていなかったでしょうね」と頭をかく。


生活は楽ではない。海外に渡っても待遇はひどいものだが「結果を残し、自分を早く上のリーグに連れていくだけ」と屈託がない。


丹波市での浪人生活は「改修の手伝い、湯の出ないシャワー、鹿と暮らす生活と、初めてのことばかり。楽しく、充実していた」と満面の笑顔。


大リーグエンジェルスの大谷翔平選手と同い年。「二刀流では勝てないけれど、ピッチングでは勝たないと。いつか、坂下世代と言われるようになりたい」と